企画・予約は毎年持ち回りでその年は祖父母の持ち回りだった。
大体いつも飛行機か新幹線で関西・中部方面に2泊3日、帰ってきたらみんなで墓参りして家でどんちゃん騒ぎする実質3泊4日。
当時8歳だった私は前日から熱を出して母とともに残留、父と妹が旅行に行った。この年は京都だってことは知ってて、毎年東京スゲー原スゲー江川スゲーみたいな感じだったので
祖父母・叔父が後楽園でデーゲームを観戦して残りの人たちは後楽園遊園地であそんで夕方あるいは夜に移動ってのが毎年恒例でその時間になるだろうなってのも予想できてたけど月曜だから野球はなかったらしい。
そんなこんなで「もう飛行機乗ったかな?」「新幹線じゃないの」みたいな話をした。
その後でおかゆを作ってもらって食べてた頃にニュースで羽田-大阪の日航ジャンボがレーダーから消えたってニュースが流れて「大丈夫・・・だよね?」「きっと新幹線よ・・・」みたいな話をしていた覚えがある。
でも新幹線なら車内の公衆電話から電話するわ~って言って旅行した父から電話がかかってこなくてさすがに心配になって紛らわそうとしてトップテンを見ても日航のニュースばかりで全然紛れなかった。
そうこうしているうちに万が一に備えて現場に行けるように母は荷物まとめるわで心の中が凄い修羅場になってたところに結局零時前ぐらいに電話がかかってきて「(私)の調子はどうだ~」っていうようなことを言ったよう。
母が涙目ででもキレ気味に「ニュース見てなかったの!?っていうかなんで電話してくれないの!」って感じに言ったら「じいさんが飛行機も新幹線も混むから嫌だってんで東海道本線だったんだ」ってニュアンスのことを言ったらしい。
結局父が知っていたのはかい人21面相のニュースまででそこからは知らずに日航墜落は電話を聞いてテレビをつけて知ったそう。
無事だったはいいけど心配で心配で治りかけてた風邪がぶり返して体温も39度台まで行ってしかも盆だから医者も休みでそうなると入院か?ってところまで含めて一連の修羅場。
結局その旅行の参加者も我が家だけとなって明日から墓参りってところでTBSの番宣を見て思い出しカキコ。
救護活動の拠点となってた藤岡市の隣町に住んでたから報道や自衛隊のヘリやらがバンバン飛んでた記憶があるよ
自分は正に乗るはずだったよ。
東京ー大阪の帰路にいた。
直前で新幹線に変更になったけど、帰ってからのぞっとした感覚は覚えてる。ラジオから延々乗客の名前が読み上げられるのを聞いてね。
>>846さんもご無事で何より。
私はあの日、仲間とみんなでヒャッホーな海水浴に出かけていた。
浜辺で、ラジオでゴキゲンな音楽でもかけようぜ!
(30年前は、ipodもmp3プヤーもなかったんですよ。レジャーにはラジカセww持参)
とスイッチを入れたら、エンドレスでそのニュース、搭乗者名簿の読み上げ……。
晴れ上がった空の下、青く輝く海、おニューの水着(表現がオバサンでスマン)のまま、
みんなでラジカセの周りで正座して(万が一、知ってる人でも乗ってたら……と思って)
ラジオを聞いていた。
確か明石家さんまもそうだよね
逆に坂本九は、普段はANAに乗っているのにその日だけどうしても席が取れず
しかたなく当便に乗ったんだってね
不謹慎だけど「九氏に一生」という文字を見て坂本九を思い出したよ
ところで、坂本一生(新加勢大周)はどこへ行った?
普通呼び出し電話なんてそんなにないのに、たくさんの人が呼び出されていたよ。
今から思えばあの事故が原因だったとしみじみ思い出す。
明石家さんまもあの飛行機に乗るはずだったのよね。『ヤンタン』のラジオのために。
でもその日ばかりはさすがの彼もほとんど喋れず、歌ばかりかかっていたそうだ。
引用元: ・今までにあった最大の修羅場を語るスレ5